お久しぶりです。D2のHRです。投稿遅れてすみません!
先月、能登地震で被災した富山県高岡市櫻谷古墳の事前調査に行ってきました。
B3の須川さんも参加してくれました。楽しんでくれましたでしょうか?良い結果がでますように。。。
9月も中旬に入ったというのに、ほんともうあっつくて大変でしたね。。。桑野先生や久野さん、土方、湯木君には(半ば強制的に)忙しい中調査を手伝ってもらい、ありがたい限りです!
きっかけ
そもそものきっかけは今年の6月に開催された関東地盤研の野球大会。東工大の澤田茉伊先生とお会いし、「今度富山の櫻谷古墳を調査する機会があるから、一緒に調査しないか」と誘われ、(桑野先生の了承も得ず)二つ返事で行くと返事してしまったことが事の発端でした。というのも、、、
今回調査した櫻谷古墳は、二年前北陸を家族で旅行した時偶然通りかかって、登ったことがあったんです。歴史好きの父親の影響で、小学校の頃は古墳を見に行ってました。あの日櫻谷古墳に登ったのは小学校以来、実に15年ぶりのことでした
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人って不思議なもので、亡くなった人の顔や声ってすぐに思い出せなくなってしまうものなんですよね。いまは動画や写真がありますが、なかった昔はすぐに忘れ去られていたでしょう
古墳は何故建てられたのか?という疑問について、故土生田純之先生は大伴家持の歌をもとに説明していました。
「大伴の遠つ神祖の奥つ城は顕く標立て人の知るべく」
奥津城(おくつき)」は墓所、「顕く(しるく)」は、「はっきりと」という意味。 「大伴の遠い祖先の神の墓所は標(しめ)をたててはっきり分かるようにしよう。人が見て分かるように」という歌であり、一族の墓所は後世の人々に見えるように、立派なものを建てようという意識があったようです。
人はどんなに名誉や金があろうと、あの世に行くときは何も持っていけません。それどころか、自分のいた痕跡は時代の潮流に逆らえずすぐに朽ち果ててしまうものです。
1500年前、当時の人々はその思い古墳という形に遺しました。彼らのいなくなった今、これを風化させずに受け継ぐのは生きている私たちの役目なのかもしれませんね